涙なしには語れない、ベルリンの壁の崩壊までの歴史をわかりやすく詳しく解説

みなさんベルリンの壁についてどれぐらい知っていますか?ベルリンの壁の歴史をなんだか書きたい気持ちになったので書きます!ベルリンの壁関係の動画や写真を見ると、わかっているのに絶対いつも泣いてしまうんです。なんでこんなことになっていたんだろうって思うんです。

わりと最近の出来事だからか、ベルリンの壁のことはストレートに心に刺さってきます。ベルリンの壁にはたくさんの悲劇的なストーリーやドラマがあります。ベルリンの観光をするならベルリンの壁を見ることになると思うし、皆さん大体の内容は知っているかと思いますが、詳しく知っておくともっと有意義な観光ができると思います。ぜひ読んでみてくださいね。

スポンサーリンク

戦後のドイツベルリン

第二次世界大戦後、敗戦国であるドイツはベルリン郊外のポツダムで取り決められた協定によって、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連によって分断されました。

最初はそのうち統一される予定でしたが、ソ連とアメリカの関係が悪化し、東の共産主義vs西の自由主義という風に、冷戦とともに東西の境界ははっきりしていくことになりました。

ベルリンの分割図 Occupiedberlin.png by Morwean

ベルリンは東ドイツど真ん中にありましたが、首都であることから、ベルリン内でもドイツ全体と同じように上記アメリカイギリスフランスソ連で分割されました。

ベルリン封鎖

物資を運んできた飛行機を見上げる西ベルリンの人々

西ベルリンの存在は「喉につっかえた骨」のようであり、ソ連にとってはうっとおしい存在でした。ソ連は、1948年に西ベルリン封鎖を実行し、交通網、鉄道を遮断しましたが、西ベルリンは空輸による供給によって食料や燃料などたくさんの資源を受け取ることに成功しました。それが1年以上続きましたが、封鎖の意味が無いと知ったソ連は1949年には封鎖を解除しました。

東西の経済的格差

西ベルリンは連合国の管轄の下、資本主義国家として大きな発展を遂げました。経済は潤い、人々は質の良い服を着て、最先端の家電など生活必需品を買って、自由に旅行をしました。

一方ソ連の管轄下の東ベルリン(DDR)は対極の環境にありました。ソ連は東ベルリンを戦利品とみなし、東ベルリンにあった工場などから重要な機材や部品をソ連に持って帰りました。人々の生活は苦しいものになり、共産主義ソ連の影響下の政府からの圧迫により、自由が奪われました。

西ドイツへの避難

抑圧された生活に耐えきれなくなった東ドイツ人は西にどんどん引っ越して行きました。1952年にはドイツ内の境界が強化され、直接の横断は難しくなりましたが、西ベルリンに行くことは簡単だったため、人々は西ベルリンを経由して西ドイツへ向かいました。

1949年から1960年にかけて、西ドイツへの難民の数は250万にも上りました。多くは若い才能のある医師や技術者だったため、東ドイツの経済に打撃を与えることになりました。結果として20%の東ドイツ国民が西へ移動したことになります。

ベルリンの壁建設

1961年の壁の建設 © IWM (HU 73012)

東ドイツはどうにか国民の流出を食い止めようとしました。西ベルリンをなんとか手に入れたいソ連は、退かなければ武力行使に出るなどと脅しますが、アメリカ諸国は西ベルリンを守ることに固執しました。

どんどん増える難民についてどうにか手を打たなければならないのは明確でした。ベルリン住民の間にも、西と東の間の境界に何かが起こることが噂され始めていました。

ドイツの社会主義統一党の書記長ヴァルター・ウルブリヒトの有名な発言「誰も壁なんか建てようと思っていない」の2ヶ月あと、1961年8月12日〜13日の深夜、人々が寝静まっている間に、トラックと警察、兵隊が東ベルリンと西ベルリンの境界に集まり、有刺鉄線で西ベルリンを囲み、封鎖しました。

13日の朝、ベルリン住民は境界が閉ざされているのを発見して驚愕し、絶望しました。西ベルリンで働いていた東ベルリン住民は職を失い、家族、友人は離れ離れになりました。その夜たまたまどちらかに訪れていた人々は、そのどちらかにに閉じ込められる形となり、ベルリン住民の運命を分けた夜となりました。

ベルリンの壁の構造の変遷

一番最初に造られたのは有刺鉄線の柵でしたが、数日後にはもっと強固なコンクリートの壁にとって代わられました。1965年にはもっと強化されたものが造られ、1975年から1980年にかけて複雑な構造の最終形態の壁が造られました。

最終形態の壁はメインの壁ともう一つの壁で構成され、その間のスペースは、逃げようとして入って来た人を射殺するよう指示が出されていた、無人地帯「死のゾーン」でした。この無人地帯には300の監視塔、金網のフェンスも置かれ、軍人と警察犬が常にパトロールしていて、超えるのはとても不可能なものでした。

東ベルリン政府はこの壁を「アンチ共産主義から東ドイツを守る壁」と称しましたが、実際は単に東ドイツ国民の流出を防ぐためだけのものでした。西側、アメリカ、その他諸国はこの壁をウォール・オブ・シェイム(恥の壁)と呼ぶようになりました。

アメリカでは西側から壁を壊すべきだという意見も揚がりましたが、壁を壊して、また壁が造られて、それをまた壊して戦争にするのか、と、ケネディ大統領は「壁はあんまり良いものではないが戦争よりよっぽどマシだ」と言いました。現にベルリンの壁は西ベルリンを守り、冷戦状態を保持するのに役立つものになりました。

ベルリンの壁の境界検問所 (チェックポイント)

東ベルリンの検問員にチェックを受ける車 Bundesarchiv, Bild 183-88832-0001 / Stöhr / CC-BY-SA 3.0

このようにベルリンの壁は硬く閉ざされていましたが、所々にいくつかの境界検問所(チェックポイント)がありました。西ベルリン、西ドイツの住民は手続きをすれば東側を訪れることができましたが、東ベルリンの人々は特別な事情がなければ西側に行くことは困難でした。

最終的に12の境界検問所ができましたが、一番有名なものはチェックポイントチャーリーです。外交官など外国人の要人がこちらを使いました。こちらでは1961年アメリカ人駐在員と東ベルリン検問員の間の言い争いからひきおこった世界を震撼させる出来事、アメリカとソ連の戦車の対峙も行われました。

ベルリンの壁からの脱出

ベルリンの壁は膨大な数の人々の流出を阻止しましたが、どうにか脱出する人もいました。1961年から1989年まで、5000人の人々が壁を越えるのに成功したと言われています(内600人は壁の警備隊であったと言われています)。

脱出方法は、壁がまだそこまで強固でない頃はロープをつたって登ったり、壁近くの建物の窓から飛び越えたり、トラックで体当たりをするなどでした。しばらくすると、壁近くの建物は窓がブロックされたり取り壊されました。壁の仕組みに車両の進入をブロックする仕組みも造られました。

壁が強固に本格的になるにつれて、脱出方法も工夫が凝らされたものになりました。壁の下にトンネルを掘って脱出を成功させたり、気球を作って空から西へ逃げた人もいます。

しかし、東ドイツの壁の警備隊は、逃げようとするものを射殺するように許可されていたため、逃げるのに失敗して命を落とした人もいます。200人前後の人々がベルリンの壁の犠牲者になりました。

ベルリン平和への呼びかけ

レーガン大統領のブランデンブルク門前での演説

1987年にベルリンを訪れたアメリカ大統領ロナルド・レーガンは、ブランデンブルク門の前で行われた演説で、ソ連の最高指導者ゴルバチョフに向けて、「平和を求めるならこの壁を壊せ!」と言いました。

同年デビッド・ボウイが西ベルリンでコンサートを行いました。このコンサートはベルリンの壁の近くで行われ、多くの東ベルリン住民が壁際に集まり、警察官と衝突しました。コンサート会場からは東側からのファンの声も聞こえ、表現しがたい特別なものだったようです。

翌年にはブルース・スプリングスティーンが東ベルリンでコンサートを行い、20万人の東ベルリン住民が熱狂しました。このコンサートは4時間にも渡り、人々の自由への魂を鼓舞しました。

共産主義の衰弱

1980年代後半になると、東ヨーロッパ諸国ポーランド、チェコ、ハンガリーなどで共産主義が弱体化し、ソ連でもゴルバチョフによる改革が進められて東側の雰囲気が変わってきました。

1989年にはハンガリーで国境が西へ解放され、多数の東ドイツ人がハンガリー、オーストリア経由で西ドイツへ脱出しました。(ハンガリーとオーストリアの友好と東ドイツ人を脱出させる目的の政治的ピクニックもオーストリアの国境近くのシュプロンで行われました。)

これによってドイツ東西の国境やベルリンの壁の存在意義が薄れてきました。このような状況の中でも東ドイツの指導者エーリッヒ・ホーネッカーは今までと変わらぬ態度を貫きましたが、自国ソ連の改革などで忙しいゴルバチョフの指示を失い、東ドイツ改革派の勢いもあって辞任させられました。

その後の政府は穏やかな改革を進めようとしましたが、国民はそれに賛成せず、各地でデモが活発化しました。

ベルリンの壁崩壊へ

1989年11月9日、記者会見で東ドイツ政権の広報担当者ギュンター・シャボフスキーによって、「東ドイツ住民は自由にベルリンの壁の境界検問所(チェックポイント)を通過できる」ということが報道されました。

報道陣からの「いつから?」の問いかけに対し、書類をよく読んでいなかったシャボフスキーは「今すぐです」と言いました。(本来の決定では「明日、すぐ」ということだった) 境界の通過には手続きがいることになっていましたが、それについても説明がなされませんでした。

突然の境界解放の報道に驚愕し、信じられない気持ちの東ドイツ国民は、本当に西に行けるのか確かめるために徐々に境界検問所に集まりました。その数はどんどん増え、膨大な数になり、今まではそのような人々を射殺するよう命じられてきた境界警備隊は大混乱しました。指示を仰ぐために本部に何度も連絡しますが、ちゃんとした指示を受けることができませんでした。

集まったたくさんの人々は「Tor auf! Tor auf! (ゲートを開けろ!)」と声をあげ、事態に危機を感じた警備隊はほんの少しづつ人々を中に入れ始めました。しかし次第にコントロールを失い、独自の判断でついにゲートを全て開け、人々は一斉に西ベルリンへ進入しました。この大勢の人々がはしゃぎながら境界を超えていく非現実的な光景に、何人かの警備員は涙をこらえることができなかったそうです。

壁の解放には東ベルリン住民も西ベルリン住民も歓喜し、西ベルリン住民は東ベルリン住民を歓迎し、人々はやっと訪れた自由をシャンパンで祝い、喜び、歌い、涙しました。街中にたくさんの人が溢れ、人々は壁に登り、東西の再会、統一を喜びました。ある記者はこの光景を、「歴史上最も素晴らしいストリートパーティー」と表現しました。このパーティーは数日続きました。

一番初めに解放されたボーンホルマーシュトラーセのチェックポイントの様子

ベルリンの壁は徐々に取り除かれ、資材はドイツの再建に使われました。その他にも世界の建造物に使われたり、世界各地の博物館にも飾られることになりました。一部は記念としてベルリンに残っており、メモリアルやアーティストによるペイントがされたギャラリーとして置かれています。翌年の10月3日に東西ドイツは正式に統一されました。

ベルリンの壁の観光のおすすめはこちらもどうぞ

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする